1. はじめに
長野県の高校受験を経験した人なら、疑問に思ったことがあるかもしれません。「北信だけ学区が細かく分かれていた」ことに。
かつて長野県の公立高校は、12の通学区に分かれた学区制が導入されていました。しかし、北信だけは第1〜第4通学区と、他の地域に比べると細かく区切られていました。
今回は、その背景について考察してみたいと思います。
2. 長野県の公立高校と12学区制について
まずは12学区制について、簡単におさらいしましょう。
長野県は北信・東信・南信・中信の4地域に大別されます。
かつての高校受験では、その4地域の中にさらに通学区を設定していました。
地区 | 旧学区 | エリア | 令和7年度 中学校卒業 予定者数 |
---|---|---|---|
北信 | 1 | 飯山市・下水内郡・下高井郡(山ノ内町除く) | 168 |
↑ | 2 | 中野市・須坂市・上高井郡・下高井郡山ノ内町 | 998 |
↑ | 3 | 長野市北部・上水内郡 | 2,335 |
↑ | 4 | 長野市南部・埴科郡 | 1,713 |
東信 | 5 | 上田市・東御市・小県郡 | 1,585 |
↑ | 6 | 小諸市・佐久市・北佐久郡・南佐久郡 | 1,787 |
南信 | 7 | 岡谷市・諏訪市・茅野市・諏訪郡 | 1,616 |
↑ | 8 | 伊那市・駒ヶ根市・上伊那郡 | 1,686 |
↑ | 9 | 飯田市・下伊那郡 | 1,368 |
中信 | 10 | 木曽郡 | 190 |
↑ | 11 | 松本市・塩尻市・安曇野市・東筑摩郡・南安曇郡 | 3,694 |
↑ | 12 | 大町市・北安曇郡 | 420 |
これを見ると、次の点が注目されます。
- 北信だけ4学区に細分化されていること
- 第11通学区(松本エリア)の規模が他と比べて大きいこと
通学区制の目的のひとつに、
「地域内でバランス良く高校進学の機会を確保すること」が挙げられます。
つまり、遠方まで通わせることなく、地域ごとに進学できる体制を整えるということです。
とはいえ、北信は特別に人口や面積が大きいわけでもないにもかかわらず、唯一4学区に細分化されており、やや異質な印象を受けます。
3. 北信と中信、学区設計の違い
ここで北信と中信の違いを見てみましょう。
北信には、旧制中学を母体とし進学校と呼ばれた高校が広い範囲に分散して存在していました。
- 飯山北高校(飯山市:旧第1通学区)※現・飯山高校
- 須坂高校(須坂市:旧第2通学区)
- 長野高校(長野市:旧第3通学区)
- 屋代高校(千曲市:旧第4通学区)
一方、中信地域では状況が異なります。
松本市に進学校が集中していました。
松本深志高校をはじめ、松本県ヶ丘高校も旧制中学を母体とする旧来の進学校。さらには蟻ケ崎高校、美須々ヶ丘高校も高い偏差値を維持しています。
中信には、大町高校(現・大町岳陽高校)や木曽高校(現・木曽青峰高校)が旧制中学を母体とした高校として存在していましたが、いずれも中山間地で人口規模が小さいため、実態としては松本市への一極集中となっていました。
つまり、中信では松本市を中心とした広域で学区がまとまったのに対し、北信は進学校が広範囲に分散していたため、細かい学区分けが必要だったと考えられます。
関連記事:
高校旧12学区制の影響を探る なぜ松本エリアは広域学区だったのか?
4. 筆者の考察:「進学校の配置が学区を決めたのでは?」
ここからは私なりの考察です。
12学区制を導入するにあたっては、
「通学可能な範囲に一定水準以上の進学校が存在すること」が、一つの前提として考慮されたと見られます。
北信には、県屈指の進学校である長野高校が存在しており、須坂市や千曲市からでも十分通学可能な立地にありました。
それにもかかわらず、須坂高校(須坂市)・屋代高校(千曲市)を中心とする地域が、それぞれ独立した通学区(第2・第4通学区)として設定された背景には、進学校が北信各地に分散していた事情があると考えられます。
各地域の進学実情に即した学区を形成する必要があったのでしょう。
須坂高校や屋代高校は、いずれも旧制中学校を前身とし、長年にわたり地域の進学需要を支えてきた伝統校です。
これらを長野高校と同一学区に含めてしまえば、受験生はどうしてもより偏差値の高い長野高校を志望する傾向が強まり、地元の進学校が相対的に地位を低下させるおそれがありました。
そのリスクを回避するため、須坂市や中野市の生徒は須坂高校へ、長野市南部や千曲市の生徒は屋代高校へと、地元志向の進学ルートを制度上で担保する形がとられたのではないでしょうか。
つまり、北信地域が細かく学区分けされたのは、単なる地理的な事情だけでなく、地域の教育バランスを保つための政治的配慮が大きく影響していたと見ることができます。
特に第3通学区と第4通学区では、長野市内で学区が分断されていました。これにより、篠ノ井や松代といった長野市南部の地域は、同じ長野市でありながら第3通学区の長野高校などは選択できない状況に置かれていたのです。
5. 学区制が生んだ地域差と現在への影響
この細かな学区設定は、各地域の高校選びに大きな影響を与えました。
2004年に12学区制が廃止され、4学区制に移行し、事実上の学区撤廃となりました。しかし、それ以降も須坂市の生徒は須坂高校、千曲市の生徒は屋代高校へ進学するという地元志向は根強く残りました。
特に屋代高校は、県内屈指の進学校である長野高校や上田高校とほぼ中間に位置していたため、12学区制の廃止によって両校への流出が懸念されました。しかし、現在ではその懸念を払拭し、長野県有数の進学校としてその座を確立しています。
この実績は、理数科や中高一貫校の設置が大きな要因ですが、そもそも一定の進学校としての認知がなければ、これらの設置対象にはなりえなかったでしょう。したがって、12学区制の影響は今もなお大きかったと考えられます。
参考記事:北信地区2番手校は?須坂・長野吉田・長野西・屋代の比較で探る偏差値の変遷
6. まとめ:「地域と教育を考える一つの視点」
北信地域だけが細かく分かれていたのは、
「旧制中学を母体とする進学校が広域に分散していた」という地理的・歴史的な事情があったからだと考えます。
学区制というのは単なる区分けではなく、その地域の歴史、地理、文化と深く結びついています。改めて地域と教育の関係に目を向けると、見えてくるものがたくさんあるかもしれません。
学区制そのものは時代とともに全国的に緩和・廃止されつつありますが、今でも「どの地域に進学校があったか」という歴史は、地元の進学志向や教育熱に少なからず影響を与えていると感じます。
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