高校入試 旧12学区制を探る なぜ松本エリアは広域学区だったのか?

歴史と教育

1. はじめに

長野県の旧12学区制において、北信で細かく学区分けが行われた背景には、長野市を中心にしながらも、須坂高校や屋代高校などの有力進学校が近隣に複数に分散していたことがあると考察しました。

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今回はその対比として、なぜ松本エリア(旧第11通学区)が一つの広域学区にまとまったのかに注目し、その背景を探っていきます。

2. 旧12通学制における松本の立ち位置

旧12学区制では、中信は3つの学区に分けられていました。

旧学区エリア令和7年度
中学校卒業
予定者数
10木曽郡190
11松本市・塩尻市・安曇野市・東筑摩郡・南安曇郡3,694
12大町市・北安曇郡420

ここからもわかるように、3つの学区のうち2つ(木曽、大町)は中山間地域のため規模が小さい一方で、松本を中信とした旧第11通学区は特に規模が大きい学区となっていました。

これは、進学希望者が目指す高校の多くが松本市内に集中していたことが大きく関係しています。

12学区制の導入にあたっては、「学区内に一定水準以上の高校が存在すること」が条件として考慮されたと見られます。
しかし、松本市に進学校が集中していた中信では、その条件を満たす学区を複数設けることが難しく、結果として松本を中心とした広いエリアの学区を形成せざるを得なかったと考えられます。

3. 松本一極集中の背景

松本に進学校が一極集中した背景には、大正12年(1923年)に設置された松本第二中学校(現・松本県ヶ丘高校)が大きな鍵を握っていると考えられます。

これは北信における、上高井中学校(現・須坂高校)、埴科中学校(現・屋代高校)の設置と同時期にあたります。

当時、旧制中学は県に数校しかないのが一般的だった中で、松本市のような地方都市に旧制中学が2校設置されるケースは、全国的にも珍しいことでした。

北信の須坂や屋代のように、中信でも塩尻や豊科(現在の安曇野市中心部)といった近隣地域に高校を設置するという選択肢もあったはずです。
しかし、最終的にそれらの地域が選ばれなかった背景には、いくつかの要因が考えられます。

(1) 「学都」松本の形成

松本市は、明治期に旧制松本中学校(現・松本深志高校)が設置され、さらに大正時代には松本高等学校(旧制高校、現・信州大学の母体)も開校しました。
これにより松本市は「学都」としての地位を確立し、中等教育・高等教育が集積する都市へと成長したのです。
教育機関が集まったことにより、周辺地域からも「進学=松本へ」という志向が早くから形成された結果と考えられます。

(2) 塩尻の位置関係

塩尻は古くから交通の要所で、一定水準の規模はありました。
しかし、地理的に松本市に近接し、行政面での結びつきも強かったため、独自に旧制中学を置く必要性が乏しかったと考えられます。

(3) 豊科(安曇野地域)の発展段階

当時の豊科町や周辺地域は、農村地帯で人口・経済力ともに旧制中学設置に見合う水準はなく、設置の候補からは外れたとみられます。


こうした条件が重なり、自然な流れで松本市内に2校目が設置され、中信では松本への進学一極集中がさらに固定化される流れが加速したと言えるでしょう。

4. まとめ

松本市を中心とする旧第11通学区が広域になった背景には、松本に高校が一極集中していたことが関係しています。

松本市への高校集中は、旧制中学や高等教育機関の存在、地理的条件、さらに周辺地域の事情が重なった結果として、松本が中信の教育拠点としての地位を固めたからと言えるでしょう。

進学校が都市部に集中する構図は全国的にも珍しくありませんが、長野県の中で中信と北信に見られる対照的な傾向は、非常に興味深いものがあります。

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