塚原青雲高校——かつて長野県に存在した異質な高校

視点コラム

長野県松本市に、かつて全国的にも極めて異質な高校が存在していた。
その名は—— 塚原青雲高校

この名前はすでに県内の学校一覧から完全に姿を消した。しかしその歴史の中で、県外生を大量に抱えた野球部、部員17名での甲子園出場、そして学校経営譲渡といった強烈なエピソードを次々と残し、“伝説の高校”として語り継がれている。

本稿では、この学校の誕生から消滅、そして松本国際高校として再生するまでの 興亡の軌跡 をたどりたい。


スポンサーリンク

塚原青雲高校とは何だったのか

塚原青雲高校は、松本市に存在した私立高校である。
その歴史をたどると、

松本女専高校 → 塚原高校 → 青雲高校 → 塚原青雲高校

という幾度もの改称を経てきた学校だった。

2005年には学校法人が外部へ譲渡され「創造学園大学付属高校」へと改称。さらに2018年に再度の譲渡を経て現在の 松本国際高校 という姿へと生まれ変わっている。

■塚原青雲高校 年表

つまり現在の松本国際高校は、歴史的には塚原青雲の流れを汲む学校と言える。
しかしながら、教育内容・校風・運営体制は大きく刷新されており、加えて校地も移転していることから、現在の松本国際高校には塚原青雲の面影はほとんど残されていない。


創設者の“野球重視”と異質な校風

塚原青雲高校を語るうえで欠かせないのが、校名の由来にも通じる創設者・塚原善兵衛氏の存在である。
氏は高校野球に強い思い入れを持ち、野球部を学校の中心に据える方針を取っていたとされる。試合の戦略にまで関与したともいわれ、その熱量は並々ならぬものがあった。

その一方で、教育理念や生活指導の徹底には課題があり、校風は荒れ気味であったとされる。経営譲渡に至る晩年には、学校全体の雰囲気が“近づきにくい”印象を与えていたと語られることもあった。

こうした状況も影響し、地元松本市を中心とした中信地域の中学生からは次第に敬遠され、一般生徒の確保は徐々に難しい状況となっていった。


地元から敬遠され「県外生だらけの野球部」へ

一般生徒が減る一方で、塚原青雲高校に残ったのは野球部であった。
その野球部員の多くは関西を中心とした県外出身者であり、チーム編成は長野県内でも特に異色であった。

当時の信濃毎日新聞の夏の高校野球特集では、各校のメンバー紹介で選手名とともに出身中学校が併記されていた。塚原青雲の欄には“大阪・○○中”といった関西圏の中学校名が多く並び、その特異な構成がひときわ目を引いた記憶がある。
長野県の高校で県外出身者がこれほど多い野球部は、当時としてもきわめて珍しい存在であった。

公立校は基本的に地元の生徒で構成されるし、松商学園や佐久長聖といった私立強豪校であっても県外生は一定数にとどまっていた。
その中にあって、塚原青雲高校のメンバー表は“ほとんどが県外生”という特異な構成を示しており、明らかに異彩を放っていた。

前述の通り、地元からの入学者が減少したことに加え、関西方面に強いネットワークがあったことなどが重なり、結果として

学校全体=ほぼ野球部の県外生

という、全国的に見ても極めて特異な構造が形成されることとなった。


深刻な経営難と“部員17名”の野球部

平成13年当時、学校経営は一段と厳しさを増し、野球部へのスカウト活動も停止される状況となっていた。
その結果、この年の野球部は以下のような構成となっていた。


3年生:野球特待組(最後の世代)……13名
2年生:部員ゼロ
1年生:地元一般生(野球特待ではない)……4名


つまり、野球部全体で わずか17名
さらに1年生の4名は春に入部したばかりの一般生であったため、実質的には3年生13名が中心となってチームを形成していた。


平成13年:部員17名で県大会優勝、そして甲子園へ

こうした極端に少人数のチーム編成にもかかわらず、塚原青雲高校は夏の高校野球長野県大会を勝ち抜き、ついに甲子園出場を果たすこととなった。
高校野球のベンチ入りは18人が上限であるため、ベンチ枠を満たさない状態で代表となったチームは、当時としてもきわめて珍しい存在であった。


■ 準決勝:長野商業(エースは金子千尋)に勝利

長野商業は、後にプロで活躍する金子千尋をエースに据え、優勝候補として注目されていた。しかし、その金子から12三振を奪われながらも2−0で勝利
この長野商業を破った試合は“波乱”と評され、県内でも大きな話題となった。


■ 決勝:佐久長聖を破り優勝

佐久長聖も当時から県内屈指の私立強豪校であった。
そのチームを、事実上3年生13人で構成された“17人のチーム”が破ったことは、まさに奇跡的な勝利であった。


■ 賛否両論の渦

この年の代表校が塚原青雲高校に決定したことは、県内でも議論を呼んだ。

「県外生が大半を占める学校が長野県代表になるのはどうなのか」
「いや、出身地は関係ない。勝ったチームが代表であるべきだ」

といった声が飛び交ったことを記憶している。

しかし、多くの野球ファンにとって、人数も戦力もぎりぎりの状況で勝ち抜いたチームは、まさに“奇跡のチーム”であり、称賛の対象であった。


甲子園出場が“学校の運命を変えた”

平成13年の甲子園出場は、学校にとっても大きな転機となった。

当時、野球部への特待スカウトはすでに停止されており、この年の3年生が最後の特待生世代になるはずであった。いわば、野球部は廃部の危機にあったともされる。

しかし甲子園出場によって学校名が全国的に知られるようになったことも背景となり、入部希望者が相次ぎ、野球部は存続することになる。

その結果、次の世代が育ち——
平成16年に 再び甲子園出場 を果たす。


経営難は解消されず——創造学園大学附属高校へ

再び甲子園出場を果たしたが、学校経営の状況が根本的に改善したわけではなかった。
生徒募集や運営面の課題は依然として残されており、学校経営は厳しい状態が続いたとされる。

そのため、2005年には学校法人が外部組織へ譲渡され、校名も「創造学園大学附属高校」へと改称されることとなった。

創造学園となった後は、野球部以外のクラブ活動も活発化し、生徒数も持ち直した。しかしその体制も長くは続かず、2018年には再び経営主体が変更されることとなった。


松本国際高等学校へ:完全に“新しい学校”として再編される

現在は校名を松本国際高等学校とし、校地も村井駅付近へ移転するとともに、教育体制が大きく刷新されている。

教育面では複数の学びのコースが設置され、英語・ICT分野への取り組みも学校案内で紹介されている。また松本国際中学校を併設し、中高一貫の教育体制を整えている。

スポーツ以外の活動も広い範囲で展開され、現在は新しい運営体制のもと、学校づくりが進められている。

松本国際高校の校風からは、塚原青雲時代の“荒れた雰囲気”や“野球活動への偏重”は感じられず、まったく新しい学校として歩みを進めている。

🔗関連リンク
松本国際高等学校 公式サイト

まとめ:塚原青雲高校が残した“異質で劇的な歴史”

塚原青雲高校の歩みを振り返ると、その歴史はきわめて劇的であった。

  • 創設者の野球重視の姿勢
  • 県外生が大半を占めた特異な学校構造
  • 地元から敬遠されることもあった校風
  • 金子千尋を擁する長野商業を破った準決勝
  • 経営危機の中、わずか17名で勝ち取った平成13年の甲子園出場
  • 平成16年の再びの甲子園
  • 経営譲渡と体制の混乱、そして再譲渡
  • 松本国際高校としての再編と新しい学校づくり

すでに「塚原青雲高校」という名前は消えた。しかしその存在が高校野球史に刻まれたことは間違いなく、今なお“消えた強豪校”として語られる一校である。

コメント

タイトルとURLをコピーしました