2027年に予定される町内2つの中学校の統合
下伊那郡阿南町では、2027年を目処に町内の2つの中学校(阿南第一中学校、阿南第二中学校)の統合が進められています。阿南町の人口は2025年現在3790人で、規模を考えると中学校は1校でも十分なように思えます。しかし、これまで2校が存在していた背景には、町の地理的な特性が関係しています。
阿南町は、大下条地区、富草地区、和合地区、新野地区の4つの地域に分かれています。このうち、阿南第一中学校は大下条・富草・和合の3地区を校区としており、町の中心部に位置しています。一方、阿南第二中学校は新野地区のみを校区とし、町の中心部からは距離的に離れた場所にあります。
両校の間の距離は約14.4キロメートル。国道151号線を通じてつながってはいるものの、決して近いとは言えません。統合後は阿南第一中学校の校舎が使用されるため、新野地区の生徒は長距離通学を強いられることになります。この状況を考えると、新野地区の地理的な孤立が改めて浮き彫りになります。
そもそも新野地区はなぜ阿南町に属しているのか
新野地区の地理的な隔絶を考えると、「なぜ新野は阿南町に属しているのか?」という疑問が浮かびます。新野地区はかつて「旦開村(あさげむら)」という名称の独立した村でしたが、昭和32年の合併によって阿南町の一部となりました。
この時期は「昭和の大合併」として全国的に市町村合併が進められた時代で、長野県内でも多くの自治体が統合されました。新野地区もその流れの中で合併しましたが、果たしてそれが本当に最適な選択だったのでしょうか。
周辺の地域を見ると、新野地区は阿南町の中心部よりも、売木村や天龍村の向方(むかがた)地区の方が近くにあります。
売木村については、今でこそ売木峠トンネルが開通し、新野から売木村へのアクセスは格段に向上しましたが、当時は峠を越えなければならず、地域的な分断があったと考えられます。
天龍村の向方地区については、明治時代の時点ですでに神原村(現在の天龍村の西側)に属していたため、合併の選択肢としては難しかったのかもしれません。
こうした事情の中で、行政の効率性を重視した結果、新野は阿南町へ合併した可能性が高いと考えられます。しかし、その選択が60年以上経った今でも適切だったのか、改めて検証する余地があります。
新野地区の独自性と阿南町他地域との関係
新野地区は、比較的広い高原地帯で、豊かな農地や観光資源もあります。独立した村として存続する選択肢もあったのではないかと思うのです。さらに、「新野の雪まつり」や「新野の盆踊り」など独自の伝統文化を持ち、阿南町他地域の文化とは大きく異なっています。
合併から60年以上が経過した現在でも、新野地区と阿南町のつながりは希薄な印象があります。これは地理的な隔たりに加え、文化の違いも影響しているのかもしれません。住民の意識として「同じ町の一部」という感覚が醸成されにくかったのでしょう。
結果的に、合併によって行政的な統合は果たされたものの、住民の一体感は十分に育まれなかったと言えます。統合から60年以上が経ってもなお、阿南町と新野地区の関係が希薄であることは、合併が必ずしも成功だったとは言えない証拠でしょう。
中学校統合と新野の未来
もし新野地区が単独で存続していたとしたら、あるいは売木村などと統合していたとしたら、行政運営や住民意識の面でより適切だったのではないかとも考えられます。特に、現在では売木村へのアクセスが向上しているため、中学校も売木村と統合するという合理的な選択がとれた可能性があります。
結論として、新野が阿南町に合併したことには行政上の合理性があったかもしれませんが、住民の意識としては自然な結びつきではなかった可能性が高いと言えます。そしてその違和感が、今回の中学校統合問題にも影響を及ぼしているのではないでしょうか。
新野地区の未来を考える上で、中学校統合は単なる教育環境の問題にとどまらず、地域のつながりや住民の意識といった広い視点から見直す必要があるかもしれません。今こそ、新野と阿南町の関係を改めて考え直す時期に来ているのではないでしょうか。
補足
新野地区は標高800m程度にある、非常に美しい高原地帯です。独自の伝統芸能があり、見どころ盛りだくさんのとても魅力的な場所です。ぜひ足を運んでみてください。
また、徳島県にも同じく阿南市というところがあります。興味深いことに、徳島県阿南市にも新野という地名があります。(こちらは「あらたの」と読みます。)読み方は異なりますが、同じ阿南の新野として通じるものがありますね。
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