地名+方角の校名は全国的にもよく見られる命名スタイルで、長野県でも例外ではありません。しかし長野県では、「北高校」と名の付く学校に、進学校が多く見られるという興味深い傾向があります。
現在では「野沢北高校」や「伊那北高校」が代表格ですが、かつては「飯山北高校」(現・飯山高校)や、県内トップの進学校である長野高校も、「長野北高校」という名称を名乗っていた時代がありました。
旧12学区トップ校の校名変遷マップ
出典:地理院地図(国土地理院)を加工して作成
「北」に進学校が多かったのはなぜか?
昭和23年の学制改革により、旧制中学校や旧制高等女学校などが新制高等学校へと再編される際、多くの地域では、地名に方角や地域にゆかりのある名称を加えた形式で校名が付けられました。
長野県においては、後に地域の進学校として位置づけられることになる旧制中学の多くが、偶然にもその地域の北寄りに立地していたため、結果として「○○北高校」と名付けられることになったと考えられます。
つまり、「北」が多いのは教育的な意図や方針によるものではなく、立地に由来する偶然の結果だった可能性が高いのです。
実は「北」以外の進学校もあった
旧制中学を母体とする進学校の中には、「長野北(現・長野)」に加え、「須坂西(現・須坂)」「屋代東(現・屋代)」「大町南(後の大町、現・大町岳陽)」など、「西」「東」「南」といった方角名を冠していた高校もかつては存在していました。
しかし、これらの学校は次第に改称されていきます。
また、方角名ではないものの、「上田松尾(現・上田)」や「飯田高松(現・飯田)」など、地域にゆかりのある名称を付加したタイプの校名も、昭和30年代ごろを境に、相次いで地名単独の校名へと改称されていきました。
これは、旧制中学を前身とする名門校において、「地名単独=その地域を代表する象徴的な学校」という印象を強めたかった意図が背景にあったと考えられます。
なぜ「北高校」だけは残ったのか?
こうした改称の流れの中にあっても、「野沢北」「伊那北」「飯山北」は、校名を変えることなく「北」の名を保ち続けました。
これは、おそらく県内では旧制中学を母体とする学校に、『北』を冠した校名が偶然にも多く集中したことで、「北=進学校」というイメージが県民の間に定着し、あえて改称する必要がなかったためだと考えられます。
その背景には、後に改称されたとはいえ、当時から県内トップ校のひとつであった「長野北高校」(現・長野高校)の存在が大きく影響していた可能性があります。
長野高校がかつて「北」を冠していたことにより、「北」という語そのものが知名度や学力の高さを象徴するようになり、そのイメージが他地域の「北高校」にも波及した可能性があるのです。
改称された・されなかった校名にはどんな違いがあったのか?
方角ではない例でも、「上田松尾」や「飯田高松」は校名が改称されましたが、「松本深志」や「諏訪清陵」などは、現在もなお旧来の名称のまま存続しています。
この違いは、「松尾」や「高松」といった名称がやや印象に残りにくく、学校の格や伝統が十分に伝わりにくいものだったためかもしれません。より洗練され、地域を代表する存在としての風格を備えるために、「上田高校」「飯田高校」といったシンプルで力強い名称へと改称されたと考えられます。
一方、「松本深志」や「諏訪清陵」といった校名は、知的かつ文化的な響きを持ち、格調の高さを感じさせる美しい名称だったことから、その校名のまま名を馳せ、現在に至るまで名門校として広く認識され続けているのでしょう。
まとめ
長野県では、旧制中学の流れをくむ進学校が地域の北側に立地していたケースが偶然にも重なり、「北高校」という校名を持つ進学校が多く誕生しました。
その後、旧制中学を母体とする進学校の多くが、方角名などを外して校名を改称した一方で、「北高校」に限ってはその名を維持する例が多く、現在でも野沢北高校、伊那北高校が現役校として存続しています。
しかしこの両校も近年の高校再編の対象となっており、その名が消えゆく可能性が高まっています。「北高校=進学校」という長野県特有のイメージにも、いよいよひとつの区切りが訪れようとしているのかもしれません。
関連記事:
野沢北高校と野沢南高校が統合へ 佐久地域にもたらす高校再編の影響と課題
伊那北高校と伊那弥生ヶ丘高校が統合へ 地域トップ校にも及んだ少子化の波
こうした校名の変遷には、単なる名称変更にとどまらず、地域の教育のあり方や歴史的記憶、文化的な価値観が色濃く反映されているのです。
偶然と必然が交差する「北高校」という存在は、地域性、歴史的背景、校名への意識といった要素が複雑に絡み合う点で、長野県教育史の縮図とも言えるでしょう。
コメント