大鹿村の小学校と中学校はなぜ離れている?学校統合の歴史をひも解く

地域と学校

長野県南部、伊那谷の奥地に位置する大鹿村
人口900人程度のこの山間の小さな村に、ちょっと気になる学校配置があります。

それは、村唯一の小中学校である大鹿小学校と大鹿中学校が5kmあまりも離れているということです。


出典:地理院地図(国土地理院)を加工して作成

最近では、小中一貫教育や施設の効率化の流れで、同じ敷地内に校舎が並ぶ自治体も増えています。しかし大鹿村はまったく逆の構造。なぜこんな配置になっているのでしょうか?
気になって調べてみると、そこには地形と地域バランスのはざまで揺れた村の歴史的経緯がありました。


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大鹿村は「二つの地域」から成る

大鹿村は、大河原(おおかわら)と鹿塩(かしお)という二大地域によって構成されています。

この両地区にはそれぞれ小渋川と鹿塩川が流れ、ちょうどそれらが合流する場所が「落合」と呼ばれる地区で、村の地理的中央に位置しています。
しかし中央とはいえ、谷の合流点にあたる狭い土地であり、平坦な場所は限られています。

この地理的制約が、のちに学校や役場の配置を大きく左右することになるのです。


大正7年、役場は「落合地区」へ移転

明治22年、大河原村と鹿塩村の合併により大鹿村が発足します。
発足当初の大鹿村役場は、大河原の中心部(文満地区)にありました。

しかし、それに対して鹿塩の住民からは不満の声が上がり、議論の末、大正7年に現在の落合地区へと移転しました。

この移転には、「村の中央にあることによって、どちらの地区にも偏らないように」という配慮があったようです。
まさに「落ち合う」地名どおり、妥協と公平性の象徴的立地です。


学校統合はなぜ遅れたのか?

一方、学校については長く大河原小学校・鹿塩小学校、そして大河原中学校・鹿塩中学校と、それぞれ地域ごとに存在していました。

明治末期から「一村一校」の動きはあったようですが、当時は交通機関の発達が不十分。また、村の地理的中央の落合地区は谷あいで十分な校地がないことから、実現には至りませんでした。

戦後の新制中学校導入時にも「中学校は村に1校だけ設ける」という案が出ましたが、やはり同じ理由で両地区に中学校が建てられることになりました。


昭和50年代、ついに統合の動き

再度動きだしたのは昭和49年。当時すでに中学校の校舎は老朽化が進んでおり、改築は必須の状態。「これを機に統合してはどうか」という議論が始まります。

最初は中学校のみの統合が検討されていましたが、徐々にPTAから小中学校同時統合の声も上がるようになります。

そして昭和55年、村が実施したアンケートで統合賛成が94%に達したことが決め手となり、村教育委員会は昭和56年度からの小中学校同時統合を決定しました。


しかし「中央に建てる」ことは叶わなかった

このときも、地理的中央の落合地区に建設という意見はあったようです。

しかし現実は厳しく、落合地区の地形的制約から新築は断念
結果的に、既存の校地を活用する方針がとられました。

その中で、両地区の公平性の観点から小学校は大河原に、中学校は鹿塩にという案が村議会で可決され、現在のような「分離型配置」が誕生したのです。


小さな村が選んだ「公平」という道

今では村内に一つずつとなった大鹿小学校と大鹿中学校ですが、その距離は約5.3km

確かに日常的には不便さもあるかもしれませんが、その背景には、地形という制約と、地域間の均衡を取ろうとした村の姿勢が刻まれています。

片方の地区に全てを集めるのではなく、役場も学校も「分け合う」ことで納得を得てきた村の歴史。
それはきっと、過疎地の学校配置や、自治体の意思決定の在り方を考えるうえでも、示唆に富んだ事例なのではないでしょうか。


最後に

今回の記事は、大鹿村誌(中巻)をもとに、筆者が図書館で調査した内容に基づいています。また、一部の情報は村のウェブサイト等から補足しております。

事実確認に努めてはおりますが、もし内容に誤りなどございましたら、ぜひご指摘いただければ幸いです。


参考資料:

コメント

  1. 榑木 仁 より:

    大鹿村大河原の読みは(おおかわら)であって(おおがわら)ではありません。大河原村当時からおおかわらです。

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