はじめに
長野県の高校の偏差値は、共学化のタイミングが大きな影響を与えたと考えられる。以前の記事では、長野市において長野西高校の共学化の遅れが偏差値の推移に影響を与え、長野吉田高校が地域2番手の座を確立した可能性について考察した。
しかし、諏訪地域に目を向けると諏訪二葉高校は1987年とさらに遅い共学化であったにもかかわらず、現在も諏訪清陵高校に次ぐ2番手の座を維持している。この点で、長野地域とは異なる結果を生んでいることがわかる。本記事では、この要因について考察していく。
岡谷南高校の存在が生んだ独自の偏差値推移
諏訪二葉高校が女子校だった時代、清陵に届かない男子生徒の進学先は岡谷南高校であったと考えられる。
一方、女子生徒の進学先は清陵→二葉→岡谷東という序列が確立していた。
岡谷南共学化前の序列(~1979年)
- 男子生徒: 清陵 → 岡谷南(男)
- 女子生徒: 清陵 → 二葉(女) → 岡谷東(女)
ここで注目すべきは、岡谷南高校が1979年まで男子校だった点である。県内最後の男子校として存続していたため、女子生徒の進学先としては選ばれなかった。
この状況が変わるのは、1979年の岡谷南高校の共学化、そして1980年の下諏訪向陽高校の新設である。これにより、新たな序列が形成される。
岡谷南共学化、下諏訪向陽開校後の進学序列(1980~1986年)
- 男子生徒: 清陵 → 岡谷南 → 向陽
- 女子生徒: 清陵 → 二葉(女) ・岡谷南 → 向陽 → 岡谷東(女)
岡谷南が共学化した後も、女子生徒にとっては岡谷南より二葉を優先する傾向は変わらなかったと考えられる。これは、長らく男子校であった岡谷南よりも、女子教育の伝統がある二葉の方が女子生徒にとって好ましい選択肢だったためだろう。
さらに、共学化と同時期に下諏訪向陽高校が開校したことで、女子生徒があえて岡谷南を選ぶ意義は一層薄れたと言える。

なぜ共学化後も諏訪二葉高校が2番手を維持できたのか?
1987年、諏訪二葉高校と岡谷東高校が共学化された。この時点ですでに女子生徒により岡谷南より二葉という序列が定着し、偏差値にも影響を与えていた。結果として、男子生徒も定着した序列にならう形となり、二葉が2番手校として変わらなかったのだと考えられる。
共学化後の進学序列(1987年~)
- 男女とも: 清陵→ 二葉 → 岡谷南 → 向陽→ 岡谷東
一方、長野地域では長野西高校の共学化の遅れが偏差値に影響し、長野吉田高校が2番手の座を確立する形となりました。この違いはなぜ生まれたのか?

長野地域と諏訪地域の違い
この2地域の決定的な違いは、岡谷南が長く男子校として存続していた点にあるだろう。
男子校だった岡谷南は、共学化後もその印象が残り、女子生徒は岡谷南よりも二葉を選ぶ進学傾向が根強く続いたと考えられる。
一方、長野地域で2番手の地位を確立した長野吉田は、一貫して共学校であったため、長野地域の女子生徒は古くから長野西以外の選択肢として吉田も志願することができた。
かつては長野地域でも女子生徒は女子教育の伝統校である長野西を優先する傾向があったと考えられる。しかし、吉田が優秀な男子生徒を集められる環境にあったことで学校全体のレベルが向上し、徐々に女子生徒も吉田を選ぶ傾向が生まれ、偏差値の推移にも影響していたと推察される。
特に、諏訪地域では高校の変遷が非常に激しかった。
- 県内最後の男子校(岡谷南高校)
- 県内でも遅い共学化の女子校(諏訪二葉高校・岡谷東高校)
- 岡谷南の共学化とほぼ同時期に高校が新設(下諏訪向陽高校)
これらの要素が複雑に絡み合い、結果として二葉高校が2番手の座を守る要因となったと推測される。

おわりに—高校の変遷が進学動向に与える影響
長野市と諏訪地域の比較から、高校の共学化のタイミングが偏差値の変動に影響を与えるものの、その地域の歴史や他校との関係性によって結果が異なることが分かる。
諏訪地域では、長らく男子校だった岡谷南高校の存在が進学先の選択に影響を与え、女子生徒にとって二葉が岡谷南より優先されるという意識が確立されていた。結果として、共学化の遅れが不利にならず、むしろ男子生徒の進学先としても定着し、偏差値を維持することができたのではないだろうか。
長野県の高校の歴史をひも解くことで、単なる偏差値の推移ではなく、学校のあり方そのものが進学動向に影響を与えることが見えてくる。こうした地域ごとの違いは、今後の教育政策を考える上でも興味深いテーマとなるだろう。
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