高校受験の「受かるなら上」は正しいか——高校選びは学力だけでなく配置の問題でもある

視点コラム

高校受験は、多くの人にとって人生で初めて自分で下す大きな選択である。そしておそらく、最も準備が足りないまま下される選択でもある。

準備が足りないというのは、学力の話ではない。何を基準に選ぶかという枠組みの話である。

長野高校や松本深志高校といった、県内でも学力上位層が集まり、世間では「すごい」と言われる学校であっても、定員がある以上、内部には必ず序列ができる。上位層だけを集めた集団の中にも、上位と下位が生まれる。当たり前の話であり、避けようがない。

上位の生徒については語られる。しかし下位に置かれた生徒がその三年間をどう過ごしているかは、外からはほとんど見えない。

中学生が進路を決めるとき、「合格可能性」はよく話題になる。どこまで上を狙えるか、当落線上の学校に挑戦するか、一段下げて確実を取るか。しかし合格した後、自分がその集団のどのあたりに位置することになるのか、そしてその位置に置かれた自分がどう反応する人間なのかは、ほとんど問われない。

本稿の主張は単純である。高校選びは学力だけの問題ではなく、自分をどの位置に配置するかという問題でもある。そして後者は、人によっては前者より結果を左右する。


「受かるなら上」という前提

高校の序列が比較的はっきりしている地域では、進路の話はほとんど一次元で進む。判断の主軸は合格可能性であり、合格した先のことは話題になりにくい。

もちろん、誰もが常に上を勧めるわけではない。不合格を避けたい事情から、安全圏を勧める場合も多い。しかしどちらの助言も、判断の軸は合格可能性のままである。受かるかどうかは検討されるが、受かった後にその集団のどこに置かれるかは検討されない。

そして、入学後の適合を理由に一段下げることを勧める大人は、まずいない。これは大人が無責任だからではなく、そう言うインセンティブが誰にもないからである。中学の教員が「この学校は受かっても合わないだろう」と言えば、可能性を狭めたと責められかねない。塾は合格実績が商品である。親は我が子の限界を口にすることをためらう。一方で「受かるなら受けてみればいい」は、誰に対しても説明不要で、外れても責任を問われない。

だから誰も言わない。合格した後、あなたはその学校の中でどのあたりに位置することになるのか、と。

見落とされている変数

上位校に入れば周囲に引き上げられる、という説明はよく聞く。実際そうなる生徒は多い。しかしそうならない生徒も、確実にいる。

教育心理学に「井の中の蛙効果」と呼ばれる現象がある。同じ程度の学力を持つ生徒であっても、周囲の学力が高い集団に置かれるほど、自分の学力に対する自己評価は下がるというものだ。人は自分の能力を絶対値では測れず、周囲との比較で測る。だとすれば、これは避けようがない。そして重要なのは、この効果がもともと成績の振るわない生徒に限った話ではないという点である。どの層の生徒にも起こり得る。

つまり、どの学校に入るかは学力の問題であると同時に、自分をどの位置に配置するかという問題でもある。そして後者は、進路指導ではほとんど話題にならない。

組み合わせは四通りある。

  • 上位に置かれて自信を得て、さらに進む人
  • 上位に置かれて周囲に失望し、緩んでしまう人
  • 下位に置かれて発奮し、食らいついていく人
  • 下位に置かれて圧倒され、自信を失う人

どの反応になるかには大きな個人差があり、本人の性格や過去の経験、周囲の支援環境にも左右される。

そして「下位に置かれて自信を失う」場合に効いてくるのは、一度の敗北ではなく反復である。半年、一年と順位が動かない経験が続くうちに、「まだ足りない」という解釈が「自分は向いていない」という解釈に置き換わる。そうなれば勉強に向かう気力そのものが落ち、順位はさらに下がる。三年間かけて、「自分はできない側の人間だ」という自己像が固まる。

私自身、当落線上の高校に入って三年間を下位層で過ごし、完全に自信を失っていたと思う。しかしその後に環境を選び直して集団内での位置が変わったとき、自信も行動も戻ったように感じる。少なくとも私の場合はそうだった。

出典

Marsh, H. W., & Parker, J. W. (1984). Determinants of student self-concept: Is it better to be a relatively large fish in a small pond even if you don’t learn to swim as well? Journal of Personality and Social Psychology, 47(1), 213-231.


15歳に予測できるのか

自分が校内でどのあたりに位置するかは、ある程度予測できる。当落線上での合格なら下位からのスタートになることは、計算するまでもない。

問題はその先である。その位置に置かれたときに自分がどう感じるかを、経験する前に正確に見積もるのは、大人でも難しい。想像の中では、たいていなんとかなってしまうからだ。

だから、この問いの価値は「正しく予測できること」にはない。問いを立てたことがある状態で入学することにある。

一度でも考えたことがあれば、実際に苦しくなったときに「これは想定していた状況の一つだ」と認識できる。何も考えずに入って、想定外の事態として食らうのとは、受け止め方がまったく違う。

予測の精度を上げたいなら、未来を想像するより過去を思い出すほうが当てになる。部活のレギュラー争いでも、習い事でも、自分が明確に劣勢だった場面で、自分は実際どう振る舞ったか。そこに手がかりがある。


下げるなら、どこまでか

位置を優先して志望校を下げるという選択は、あり得る。ただし無制限ではない。

学校が下がるほど、周囲との比較で自己評価は保ちやすくなる。一方で、授業の進度、進路指導の蓄積、先輩から降りてくる受験情報といった環境の後押しは薄くなる。その分は塾なり独学なりで自分で調達することになる。大学進学が前提として機能している範囲であれば、この負担は埋められる程度に収まる。その外に出ると、周囲の進路の前提そのものが変わるため、埋め合わせの負担は跳ね上がる。

つまり、下げるほど良いのではなく、最適点が必ずしも最上位ではない、というだけの話である。ここは混同されやすい。

もう一点。下げた先で上位に立てたとして、その順位を自分が額面通り受け取れるかどうかも人による。「その環境で得た順位を、自分の成長や達成として素直に受け止められるか」。ここに素直にうなずける人にとっては、この戦略はかなり強い。


大人が言うべきこと、言うべきでないこと

大人が「この学校はやめて一段下にしなさい」と告げるべきだとは思わない。それが本人にとって正しいとは限らないし、言われた瞬間に自己成就的に効いてしまう危険がある。15歳に与える影響として、大人が引き受けられる責任の範囲を超えている。

大人がすべきなのは、答えを出すことではなく、問いを渡すことだ。

「合格したとして、その三年間をどう過ごすつもりか」
「校内で下の方にいることになったら、君は何を支えにするか」

判定ではなく問いの形であれば、進路指導の立場でも塾の立場でも言える。責任を負わずに渡せる。そして、この問いを一度も投げられないまま受験期を終える子が、あまりに多い。


結び

上位校を選ぶことが間違いだという話ではない。その環境が合う人は多いし、そこでしか得られないものもある。言いたいのは、上下という一次元の軸だけで選ぶと、自分がどこに配置されるかという変数が視野から落ちるということだ。

もし今、当落線上で迷っている中学生がいるなら、伝えたいことは一つである。

合格をゴールとして扱わないでほしい。合格した後、そこに置かれた自分が三年間どう過ごすのかを、一度でいいから考えてみてほしい。

上を選ぶことが間違いだと言っているのではない。考えずに選ぶことを避けてほしい、というだけの話である。

数字の背景にある、信州教育の「深層」を歩く

当研究室では、地域の歴史や地理的特性から長野県の学校を独自に分析しています。活動理念や執筆者については、以下のページをご覧ください。

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